石垣(武者返し)
熊本城の特徴は何と言ってもこの「石垣」でしょう。明治10年の西南の役では、圧倒的兵力の薩軍(13,000)に対し、政府軍?は歩兵3,500。堅固な城ですから戦うことなく最初から籠城戦に入ったようです。何度か総攻撃を受けたようですが、薩軍は一兵たりとも侵入する事が出来ず52日間の籠城戦に耐えました。
この時城が炎上していますが、どうやら薩軍の攻撃(砲撃)によるものではないようです。
原因は諸説あるようですが、≪天守閣を焼き、兵に籠城を覚悟させるため、司令長官の谷千城(たにたてき)が命じ、参謀の児玉源太郎が火をつけた、という説が現在では有力です。≫・・・「熊本城公式HP」より抜粋しました。
西南の役の敗軍の将 西郷隆盛 は、最後にこう言ったそうです。「加藤清正に負けた」・・・。 (H21年NHKテレビ)
熊本城、往時の姿
今でも城郭・櫓・本丸御殿・天守閣と、一揃いはあるようですが、往時はこんなものではなかったようです。江戸時代に撮られたという写真や絵をみると、石垣の上は櫓や回廊などで全て埋まっています。
そして今、いまだ「主」のいない石垣がご覧の様に沢山あります。櫓だけでも49棟あったというのもうなずけます。全てを復元する話もあるようですが、何十年かひょっとしたら100年先の話でしょう。・・・それにしても加藤清正という武将、この物凄い石垣作って、建物作って、それもたった6年程で・・・凄い! としか言いようがありませんね。
熊本城の生い立ち
現在の熊本城はかって茶臼山と呼ばれていた丘陵地に、慶長6年から12年(1601〜1607)にかけて、加藤清正が築いたお城ですが、それ以前にもこの一帯は中世城がありました。
記録に残る最古の城は、応仁年間(1467〜1469)に茶臼山東端に築かれた「千葉城」で、城主は菊池一族の出田秀信です。
次に明応5年(1496)に鹿子木親員(かのこぎちかかず)別名鹿子木寂心(じゃくしん)が茶臼山西南麓に「隈本城」を築きました。この城の規模・場所は判然としませんが、その後菊池氏・大友氏・龍造氏、などが争う戦乱時代になったようです。
天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定により、先ず佐々成政が、次に加藤清正が領主として肥後に入国しますが、この時清正が居城としたのも隈本城でした。 以上「熊本城公式HP」より抜粋