「馬追い」 隋兵行列の中で迫力満点なのが馬追いです。大型の飾り馬が、勢子に囃したてられ、勇み荒ぶる様は迫力満点、今でも脳裏に焼きついています。以前は馬を「より荒ぶらせる」ためにビールを飲ませていましたが、事故もあり数十年?前から自粛されています。
「隋兵行列」 様々な衣装をした行列が延々1km続きます。 最後が「馬追い」 約65団体
(馬も65頭)が、飾り馬を先頭に勢子、鳴り物の3点セットを引き連れて続きます。 
 ・・・下はインターネットから借用した写真です
「くまもと」ぶらり旅  2008年9月更新
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神社全景  境内?は回廊などで囲まれています。
境内内部  平日なのに結構賑わっていました。観光客より家族連れが目立ちます。
藤崎宮の「秋の例大祭」(9月15日)は、熊本市最大のイベントです。中でも「隋兵(ずいびょう)行列」加藤清正が朝鮮出兵から戻ってきたとき、「滅ぼした 滅ぼしたとかけ声をあげて行列したのが始まりと言われ、子供の頃(50年前)は「ボシタまつり」と言っていました。
(その後言葉が適当でないという理由で、「ボシタまつり」という名称も「ボシタ」のかけ声も禁止され、今のかけ声は「ドーカイ ドーカイ」になっています。)
藤崎宮 秋の例大祭
※このページを見た友人(熊本の中学同級生)が、2006年にたまたま撮ったという写真とビデオを送っ  てくれました。何れも素晴らしい作品なので最後の締めくくりに使わせて頂きました。
「飾り馬」  「奉納神馬」例大祭前の儀式(お披露目の様なもの?)より…藤崎宮境内前広場
動画へ・・・ここをクリック 田尻さんありがとうございました。
※鞠智城は、今から約1300年前に大和朝廷が築いた山城で、全国でも珍しい八角形の鼓楼が特徴です。 当時、東アジアの政治情勢は非常に緊張していました。 百済が唐・新羅に攻められていた時、百済と友好関係にあった日本は援軍を送りましたが、663年の「白村江の戦い」で大敗しました。このため事態は急変し、直接日本に攻め込まれる危惧が生じました。 そこで九州の大宰府を守るために大野城(福岡)、基肄[きい]城(佐賀)、金田城(長崎)が造られました。鞠智城は、これらの城に食料や武器、兵士などを補給する支援基地でした。 現在国指定史跡になっており、国営公園を目指しています。(以上はホームページ「山鹿探訪ナビ」を参考に書きました)
  熊本を離れている間に隣村(七城)で、トンでもないものが発掘され、復元されていました。鞠智(きくち)城跡です。九州は豊臣秀吉が平定するまで戦乱が続き、その中でも菊池氏は有力な豪族だったと聞いています。従って「鞠智」と「菊池」、字は違うものの菊池氏の居城跡だと思い込んでいました。
 ところが「鞠智城」の築城主は古代の「大和朝廷」、後でインターネットで調べてビックリした次第です。こんな訳で説明は100%インターネット情報に委ねました。
その6 鞠智城跡
八角形の「鼓楼」(時報や合図を発する楼閣形式の建物)と「米倉」
※更に別の友人(熊本在住で、同じく中学同級生)が、今年の祭り(08'/9/21)本番の写真を送ってくれ  ました。(凄い鼻の穴、見物席まで鼻息が届きそうです)    ・・・野田さんありがとうございました
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鞠智城跡からの眺望・・・小高い丘の上にあり中々の眺望です そこから数キロのところに「不動岩」と呼ばれる奇岩がありました
 どぎゃんだったな熊本は? 風景は良かし食いもんも旨かばい。オルも熊本にもどろごたるばってん、いまん上志津原もほんによか町じゃけん、どぎゃんするか難しかったい。
 ぬしもいっぺんな熊本に行ってみなはりまっせ、たまがるごたる良かオナゴも、むしゃん良か男もいっぴゃ居るばいた。           ・・・そんなら終るばい、サイナラたい
チョット面白い話題
自転車持ち込みOK電車
 この藤崎宮近くを基点に運行している電車ですが(菊地電鉄)、何と自転車持ち込みOKなのです。このことは、NHKのドキュメンタリー番組で放映された事があります。
鳥居
 通称「藤崎宮」、正しくは「藤崎八幡宮」かも知れません。子供の頃は「隋兵祭り」の神社としか知りませんでしたが、調べてみると祭神が古代の天皇で、1000年以上の歴史を有する大した神宮だったのです。
 藤崎八幡宮の由来:平将門・藤原純友の乱の時、追討と九州鎮護との勅願によって、承平5年(935)、京都の石清水寺八幡宮を勧請して建立したと伝えられる。当時は藤崎台にあったが、西南の役で消失後の明治17年に現在の位置に移った。
 祭神は応神天皇・相殿に神功皇后・住吉三神を祀る。9月11〜15日の隋兵[ずいびょう]祭り(秋季例大祭)では、武者行列や馬追いが見られる。     以上インタネット借用
その5 藤崎八幡宮
「兵舎」右端の建物(広角レンズの端っこで歪んで見えますが) 発掘され、固定されている建物跡
「米倉」・・・米の保管庫で校倉造りになっています。 「板倉」・・・武器や武具の保管庫
発掘・復元の経過 :昭和34年(1959)に「鞠智城跡」として県指定遺跡に指定。
 昭和42年(1967)より発掘調査が行われ、当時としては珍しい八角形建物をはじめ72棟の 建物基礎が現在までに確認されている。
 平成6年より歴史公園鞠智城として整備が開始された。校倉造りの米倉や兵舎が平成9年  に、八角鼓楼が平成11年に復元され公開されている。
 城の面積は「内城」55ha、「外縁地区」65haに及ぶ。平成16年に国の史跡に指定された。
                       ・・・以上フリー百科事典「ウイキペディア」より抜粋。